海賊からナイトへ、大出世したフランシス・ドレーク

イングランドのエリザベス1世が統治していた時代、国庫の財政難を補うために私掠船(しりゃくせん)に許可を与えていました。いわば国を挙げてイングランドと敵対する国の船を襲ってよし。というお墨付きを与えていたことになります。フランシス・ドレークはお墨付きを得る形で、スペイン船を襲って金銀財宝を略奪して海賊として名前を挙げて見事に成りあがった人物です。フランシス・ドレーク自身も莫大な富を得ますが、海賊として奪った金銀をエリザベス女王に献上することで、地位と名誉も手に入れることになります。農民の息子として誕生したものの、ものすごい出世です。そして歴史的にみても、マゼランに続いて史上2人目の世界一周を達成しているので、イギリス人にとってはまさに『英雄』です。

ペリカン号(改名後:ゴールデン・ハインド号)で出航!

1577年11月に5隻の艦隊は、フランシス・ドレークが乗船する旗船の100トンのペリカン、そして80トンのエリザベス、30トンのマリーゴールド、30トンのスワン、15トンのクリストファーです。5隻の艦隊に乗船したのは150名です。船に乗船しているのは船乗りはもちろんですが、いわゆるイギリスの支配階級の人たちも乗船しています。5隻の艦隊のリーダーとなったのは、演説好きのフランシス・ドレークです。演説好きというのが、ちょっとユーモラスではありますが、船長たるものやはり求めらるのは絶対的なリーダーシップです。5隻の船を束ねるには相当なリーダーシップがなければ、うまくいくはずもありません。

世界一周達成するまで

イギリス南西部デヴォン州のプリマス港を出航してから、大西洋からマゼラン海峡を経て太平洋にでます。そしてスペイン植民地や船を襲っていきますが、チリやペルー沿岸を次々に襲っていきました。そしてたくさんの金銀財宝を奪っていきます。そして奪った中には、スペイン王の財宝を満載していたカカフエゴ号などもこの奪った戦利品にあります。カカフエゴ号に搭載されていた財宝は、金80ポンド、銀26t、そして貨幣に装飾品が13箱などなどで合計すると、20万ポンド相当が積載されていたとされています。

海賊行為を働くための船出でしたが、出帆した最初から嵐に見舞われたりと、苦難の連続の航海でした。そしてそれだけではありません。遠征出航の功労者でもあるトーマス・ドウティの反旗もあったり、苦労は天気ばかりだけではありませんでした。5隻の船隊に乗船している中に、荒くれ者の船乗りばかりではなくいわゆる上流階級の紳士たちも乗船していました。トーマス・ドウティはまさに名門の紳士です。トーマス・ドウティの手引きがなけらば、フランシス・ドレークもエリザベス女王に謁見することはできませんでした。

名門の紳士であれば、すんごいプライドが高くて当たり前です。エリザベス女王に謁見する手立てを持つことなど、上流階級の中でも名門中の名門でなければできません。トーマス・ドウティはフランシス・ドレークのスペイン船に海賊行為をしてやる!という考え方に共鳴したからこそ、エリザベス女王に謁見するお手伝いをしたので出航する前までは間違いなくフランシス・ドレークに共感していました。

出航してから、トーマス・ドウティは公然と反旗を翻します。内心では名門ゆえに船乗り達をめちゃくちゃ軽蔑していたのが、出航したことであからさまになったということになります。そしてトーマス・ドウティは公然とフランシス・ドレークに対して反旗を翻しましたが、どんな行動を取ったのか?というと、5隻の艦隊で航海中にドーマス・ドウティが指揮する30トンのスワン号が艦隊から脱走を図りました。

もちろんフランシス・ドレークはただちにスワン号を捜索して、無事スワン号を発見するとスワン号で指揮をとるトーマス・ドウティをペリカン号へと移して、自分の監督の下に起きますが名門の紳士ゆえに自分が監督の下に置かれるのが怒り心頭だったのでしょう。フランシス・ドレークがいないところで、ペリカン号の乗組員達に「あいつの親は農民のくせによ!偉くなったのは誰のおかげだと思ってんだ。あの成り上がりの分際で!」といって不満をぶちまけていました。

そしてペリカン号の乗組員達は、トーマス・ドウティの持つ魔術を怖がっていたのでとてもじゃありませんが、このまま航海を続けていくことがおぼつかない状況へとなってしまいました。そこで、フランシス・ドレークは裁判を軍事裁判を1578年6月に行いました。軍事裁判が行われたのは、フェルディナンド・マゼランが世界周航の時に反逆者を処刑したサン・フリアンで行われました。裁判長にはフランシス・ドレーク、そして副司令官などのほかに陪審員として40人が任命されての裁判となりましたが、トーマス・ドウティに下された判決は全員一致で反逆罪として死刑でした。死刑となったトーマス・ドウティの遺体は、丁重に埋葬されたといいます。

そんなこともありましたが、それから太平洋を横断してモルッカ諸島に出て、そこから更にインド洋から喜望峰を回って、イギリスへと帰国しました。フランシスコ・ドレースは、マゼランに続く世界一周を果たした史上2番目の人物となりました。この航海でフランシス・ドレークは、1578年にチリ最南端で岬を通過する経線が大西洋と太平洋の境界となっているホーン岬と、南極海の一部で世界で最も荒れる海域のひとつでギネスで世界一幅の広い海峡として認定されているドレーク海峡を発見しています。

イギリスのプリマス港に帰港したのは1580年9月ですが、5隻で出航した船はペリカン号のみの帰港となりました。エリザベス女王にスペイン船から奪った金銀財宝を献上していますが、その時に献上した金銀財宝の総額は、30万ポンドを越える金額でその当時のイングランド国家歳入よりも多い金額の献上となり、現代の金額に相当すると約50億円以上という巨大な金額でした。

海賊からナイトへ・・

フランシス・ドレークはこの功績を認められて、イギリス海軍の中将に任命されるだけではなく、ナイトの称号をうけ「私の海賊」とエリザベス女王からねぎらいの言葉を受けることになりました。翌年にはプリマスの市長に選ばれていますが、イングランドとスペインの国交が悪化したことに伴って、スペイン領へ攻撃するため再び海の男へと戻りました。

そしてスペイン無敵の艦隊を打ち破ったことでも有名な1588年のアルマダ海戦の時には、イギリス艦隊の副司令官に叙任されていますが、副司令官という任ではありますがイングランド艦隊の実質的な指揮をとることになって、海賊らしい戦法の「火のついた船を敵艦隊に送り込む」戦法でスペイン艦隊を壊滅させる大勝利をおさめました。

私生活の方はどうだったのかとういと、1569年に結婚したものの妻となったメアリは結婚してから12年後になくなり、1585年に再婚しています。生涯子供を持ったことはありませんが、フランシス・ドーレクは自分の美学があったようで死ぬときにもこだわりがあったようです。

50代になっても現役の船員として乗船していたフランシス・ドレークですが、1595年に当時スペイン領だったアメリカと開戦します。そしてそこで壊滅的なダメージを受けた後に、プエルトリコのサンファンの戦いで敗れました。天敵ともいえるスペイン人砲撃手からドレークの旗艦へ大砲が打ち込まれますが、フランシス・ドレークは生き延びます。そして翌年1596年に停泊中に赤痢のため55歳で亡くなりますが、死ぬ間際になっても鎧を着用しようとするほどの錯乱状態でしたが、赤痢はひどい腹痛と下痢の症状があるなか鎧をきようとするのは彼の美学で格好良く死にたい。という思いが強かったからではないか。といわれています。

スペインからは「ドラコ」と呼ばれ怖れられていたフランシス・ドレークは鉛の棺に入れられて水葬されています。ドレークが入った棺は未だに見つかっていません。